堀口ひとみ 公式ホームページ PROFILE



■幼少期〜高校生

 1975年3月13日 東京の下町に生まれる。1歳半下の弟、3歳下の妹がいる。子供のころから衝撃的だったのは、母方の祖母が都議会議員をしていたことだ。そのパートナーであった祖父はSPAや映画館を営む実業家だったらしく、東京としては珍しく、我が家の庭は庭園のようになっており、桜の木が3本、池や人工の滝まであった。

  忙しい祖母は、たまの家族旅行に新幹線で後からやってくるような人だった。離れにある祖母の家は、忙しさのあまり部屋の中は雑然としていた。週末は、書類の山をかき分けるように、弟、妹と一緒に祖母のこたつを囲み、ミルクティーを入れてもらうことが好きだった。私は子供ながらに、祖母の部屋を片付けたいと思い、たまに掃除機をかけていた。そんな祖母の背中を見て育った私は、「私もいつか、おばあちゃんのように偉くなりたい」と、どこかで思っていた。今でも季節に1度のお墓参りは欠かさない。

  祖母が他界してから、実家はアパートを経営するようになった。高校生3年の時にバブルがはじけ、駐車場の借り手が激減。両親から値ごろ感について相談される。価格を下げて、ワープロでビラを作成し、家族総出で自転車に乗り、近所のマンションへ投函した。その甲斐あって、また借り手が見つかった。子供のころから、なんとなくビジネスは身近にあった。

  子供のころ好きだったことは、なわとび、手芸、音楽、運動会、交換日記、人形遊び、写真、書道、年賀状作りだ。人生で初めて脚光を浴びた出来事は、小1のお書き初めで「金賞」を取ったことだ。冬休み中に、母に何枚も書かされたことを覚えている。小6(1987年)のときにワープロで学級新聞を作ったら、先生に驚かれた。

  勉強は中の上くらいで落ち着いていた。学校は休まず通い、小、中、高と無欠席。私の中で「休む」という概念があまりないのも、子供の頃に培ったものだと思われる。祖母の背中を見て育った私は、学級委員を立候補していた。1学期は頭のいい子しかできない。そこで、一番行事の多い2学期を狙った。3年生〜6年生まで無事に2学期の学級委員を務めた。

  周りは私立受験の友達が多かったが、私はそこまで勉学に意識が向いていなかったため、公立の中学へ。このころ一番はまってしまったのが、プロ野球観戦だった。ジャイアンツファンから始まり、同じ東京であるのをいいことに、たまにはヤクルトスワローズファンにも寝返った。池山隆寛選手の大ファンで、雑誌は全て買い、下敷きやサインなども持っていた。

  高校受験をしなくてはならないので、塾には通っていた。大学受験も大変そうだろうと、大学付属の高校へ、単願推薦で進学。特にやりたいこともなかったので、成績と付属かどうか? ということだけで決めたようなところ。 1学年10クラスもある女子高生活は、楽しめた記憶がない。高校2年の後半くらいから、希望の学部へ行くことに必死になったくらいだ。バイトも表面的には禁止だったので、それに従っていた。入りたい部活もなく、近所のテニススクールに通っていた。  

■学生時代

 英語英文学科へ進学。学校にはまじめに通うものの、テニスサークル、バイトに明け暮れる。大学1年の夏から、アルバイトをすることにした。近所のファミレスで、厨房とウエイトレスを募集している新聞広告を発見。人前に出る性格でないと思っていた私は、「厨房」を希望して面接を受けた。しかし、「ウエイトレスの方が向いていると思う」と、社員に説得される形で、しぶしぶ自分の希望を変えた。今思えば、ウエイトレスの方が実はやりたかったんじゃないかと思う。そこから、自分らしさを取り戻すことが出来たからだ。楽しくなかった高校時代から、別人のように自分が変わってオープンになっていくのを感じた。そこで出逢った友達のおかげで。

  教職課程を取得し、母校の中学で教育実習を行った。人前で教えることは、ものすごく楽しかったが、あまりに研究授業をアレンジしすぎたのか? 家庭科の先生に「ふざけている」と怒られる。生徒や担当の先生には大好評だったが。

  就職活動は、ファミレスでのアルバイトの経験から、サービス業を志望した。どうせ行くなら、外食産業1位のマクドナルドだ。そこだけを狙うことにした。たまたま、創始者の藤田田さんと誕生日が同じというシンクロがあり、ご縁を感じる。当時、人気企業にランクインされていたが、面接は落ちる気が全くしなく、7回の面談を経て内定を頂いた。  

■マクドナルド時代

 最初に配属された店舗は、子供のころからお世話になっていたマクドナルドだった。お誕生日会の件数を前年比120%UP達成させたり、販売促進に関して着実に成果を上げる。

  1年8カ月して、次のお店へ異動。下町エリアから、銀座エリアへ。世界初のセルフピックアップ店舗ということで、大注目を浴びる店舗であった。世界初ということで、世界中からお偉いさんたちが毎日ストアーツアーにやってくる。いままでの下町のクオリティとは違う、ハイクオリティーさを求められ、すべての面において、徹底性が鍛えられた。半年に一度の店舗格付けチェックでは、クオリティ、サービス、クレンリネスにおいて、トリブルAを5回獲得する結果を残す。マネンジメントスキルに自信がついた店舗であった。

  3店舗目は、「メイドフォーユー」というテスト店舗へ配属された。今では、全店舗が導入している製造方式である。2店舗目のAAA目線で店舗を見ると、その店はダメなところが多すぎるように見えた。店長にも期待され、一気に頑張りすぎて、異動してまもなく帯状疱疹にかかる。社会人になって初めての病欠となった。
  どうにか、初チェックでAAAを獲得するところまで持っていくことはできた。関東地区本部が主催する、フロアーコントロールコンテスト(店舗運営の30分間を採点される)では、関東地区3位を獲得した。
 
  この店舗にいたとき、「9.11」が起きた。ニュースを観たのは夜中で、スケジュールを作成しており事務所にいた。マクドナルドの業績も、半額バーガーの不振で、雲行きが怪しくなっていたころだ。転職も段々とささやかれだし、私もその第一波を感じ取って、早々に転職活動を始めた。

  「とらばーゆ」を買い、まずは外食産業を探していた。ところが外食産業1位にいるため、どこもしっくりこない気がした。ふとそのとき、マクドナルド同期の女性でアパレルへ転職した子の存在を思い出す。「私も背が高いから、アパレルできるかな?」と思い、アパレルのページをめくると、「マネジメントできる方」と書いてあるキャッチコピーを発見。この1社だけ職務経歴書を送った。

  明らかに場違いと感じた、青山での面接。「あの、マネジメント候補できたのですが、この会場でよろしんでしょうか?」と、空気を読まない発言を最初にしてしまった。実はそれは戦略であった。終始、アウェイな発言をしたかと思うが、翌日アパレルの会社 (現(株) リステアホールディングス)の 内定を貰った。ファッションに興味のない私が受かるとは、半ば信じられなかった。  

■アパレル時代


 「これから、会社が大きくなっていく過程で、マニュアルなんかも必要になってくるから、堀口さんには、マネジメントに貢献してほしい」と、幹部との面談で言われた。
  まずは、銀座店販売スタッフとして配属された。 期待されたとおり、店舗管理目線で銀座店を観察。入社後2週間でレポートを提出すると、2カ月後には、店長に抜擢された。給料も月10万円アップだ。「30歳までに店長になる!」という夢が、27歳、別の場所で叶った。

  銀座店はそれでよかったのだが、今度は渋谷店へ配属された。「3人の店長が誰もセールスを上げることが出来なかった」ということで、「もう堀口さんしかいないんじゃないか?」という話になったそうだ。
  しかし、期待をよそに1年以上は暗黒の時代だった。マネジメントをいくら頑張っても、スタッフたちのモラルは良くなるが、セールスアップに劇的につながらないからだ。

  厄年でないのに、初詣は川崎大師へ行った。おみくじで見事に「凶」を引き当てると、母が私に一言。「おばあちゃんは、いつも大吉って言ってたでしょ。あれは大吉が出るまで引いていたのよ!」と私を励ました。
 
  そのころなんとなく「良い兆し」が起こり始めていた。知人に「一番人脈の広い
人紹介して!」とお願いし、本田健さんの小冊子を頂いた。「好きなことを仕事にする」ことについてが書かれており、自分の仕事について、スタンスを見直しはじめたところだった。
  顧客様が、渋谷マークシティーの歳末抽選で「フィジー旅行」に当選し、「堀口さん一緒に行きましょう!」ということになった! 日本は真冬というのに、南半球は毎日快晴に恵まれ、ファインディングニモ状態で、シュノーケリング三昧だった! 相談できる人の存在や、フィジーパワーを充電してから、自分の考え方がどんどんと変化していくのを感じた。結果はまだこれからというところだった。

  時代も後押ししてくれて、メルマガやブログなどのマーケティングツールが生まれ始めた頃でもあった。雑誌掲載に頼らなくとも、自分発信で何かできるかもしれないと、思い始めた。まずはメルマガだ。まだ、個人情報保護法ができる1年前だったのもあり、店のPCからお客様へメールを送信できた。一斉送信でメールを送ると、顧客様から早速反応もあったりした。
  しかし、登録解除メールが悲しいものとなり、メルマガはあまり送りつけない方がいいのかもと思い始めた頃、HPを自分で作っている人に出逢った。 しかし、でもどうすれば? とイメージが膨らまずに、その案を温めていた。
  あるとき知人に相談したら、「もし、給料100万円の店長だとしたら、何をする?」と質問をされて、「HPを作りたい!」と答えた。「じゃあ、作れば?」という話に当然なって、「どうすれば?」と聞いたら、「HPビルダーを使えばできる。1万円くらいで買えるよ」とのこと。
  翌日にはHPビルダーを買い、5日で創り上げた!渋谷店スタッフたちもびっくりだった。やがて、「ブログ」をやっている人にも出逢い、お店でも編集できるブログへと移行した。

  ブログを開始して11カ月後、2005年6月「人気ブログランキング゙ファッション1位」となった! セールスは、前年月対比
1400万円アップ、168%アップに達した。

★もっとセールスアップの裏話を知りたい方は、「劇的セールスアップ発想法」音声教材をご参照ください。



■独立へ向けて

 2005年3月、30歳の記念として「2日で10万円のビジネスセミナー参加」と「コーチ21(現コーチA)の講座(3年間)約60万円」に自己投資した。ブログで、セールスアップしてきたので、それ以上セールスアップするために、コーチングスキルが必要だと思ったからだ。(のち、生涯学習開発財団認定コーチ取得)

  そのビジネスセミナーで、メンターとなるカリスマ美容師「金井豊」さんと出逢った。セミナー講師の人が、ファッションつながりということで、私と金井さんを引き合わせるために、お食事会を開いてくれたのだ!
  翌日、金井さんが渋谷店に早速来てくださったのだが、私はランチで不在。申し訳なく思って、メールをすぐに出した。7日後に返信がきて、「もし明日奇跡が起きるとしたら、どんな奇跡がいいですか?」とロマンティックな質問が書いてあったので、またそれに返事をすると、また返事が来て、気づけばメールが毎日続いていった。メールを開始して1年後、私は独立していた。夢が叶った。

★もっと詳しく独立までのストーリーを知りたい方は、無料冊子『かないずむ』と、「Having own my business! 自分の仕事を持つこと。堀口ひとみ&金井豊」音声教材をご参照ください。


■独立後


 2006年6月に独立。2009年3月に会社設立。2010年4月に初の海外での接客セミナー、HP完成と、順調に来ている最中、もっと深めないと、これからの自分はないなと感じ、集客、セミナー開催を意図的に減らすことを決意。

  これまで触れることのなかった子供(姪たち)とのふれあい、気持ちの傾聴についての講座(メンタルケアスペシャリスト認定取得)、海外ひとり旅(パリ、南仏、ロンドンなど)、ずっとやってみたかった趣味(ボイトレ、英会話、ヨガ)を始めたり、子供のころから姿勢が悪かった理由が骨格にあったと知り、カイロにも通いはじめた。
会社員の9年間とは、180度違うことに取り組む。ブログも、自分を追い込むように文字数を増やし、全ての面でトレーニングモードへ。

  トレーニング5年目の2015年に入り、東京ビッグサイトでの講演、1000問の質問集を作ったり、集大成のような創作の機会に触れ、精神的にも身体的にも、強化されたことを確認。2016年は独立10周年YEARとなる!

1000問の質問集「1000 Soul Searching Questions」はこちら。

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