53 NOHARA
私は困っていた。
二十代の途中までは、自力でがんばってきた。叶えたいと思った夢は、大体実現させることができた。二十代後半に入ると、ひたすら突っ走るやり方に心が悲鳴を上げて、カウンセリングのお世話になった。それからゆっくりと回復して、心身が安定した頃に結婚をした。
三十代に入り、大学卒業と同時に始めた仕事も、十年になろうとしていた。私は次のステップを探していた。仕事をただ続けるのではなくて、軸をもって発展させていく。私だからできることをする。そういうことに意識が向いた。でも、ずっしりとした重りがあって、前に進むことができなかった。
誰かに、呼ばれたような気もする。一人でここまで来たとはとても思えない。
今、探していたものを手に入れた安堵感、もう大丈夫だという安心感が、肺の辺りにしっかり存在している。呼吸を整えて、フォームを作り、ゆっくりと走り出す。
そうなるように、たぐり寄せられたんだと思う。
* * *
私のひとみずむは、友人のMaoから始まっている。
彼女とは、大学時代に語学研修で知り合った。1999年、イギリスの大学で過ごした夏。女子三人のフランス旅行。きらきらしていた時期にできた、一生ものの親友の一人だった。
女の目から見ても、Maoは可愛くて、守ってあげたい女の子。一緒にいると、いつの間にかナイト役を担っている自分がいた。パリで語り明かした夜、外側からは見えないMaoの強さを知った。この子、可愛いだけじゃないんだ。
じゃあ、私は…? …がんばり屋で、意志が強い子。
それから…? それから、私には、何があるんだろう…?
2007年の秋。私たちは、渋谷にあるカジュアルフレンチの店にいた。お互い仕事を始めて数年が経っていた。
二十歳の夏の経験は、私の将来設計を変えた。それまで出版の世界に行こうとしていた私は、言葉を学んで世界が広がるおもしろさに夢中になり、語学教師を目指すようになった。ヨーロッパの人たちがごく普通に複数の言葉を話すように、アジアの言語と文化を身につけたい。専攻を変えて大学院に進学し、修了後に韓国で就職した。帰国後は、複数の職場で教えつつ、研究にも携わっていた。
Maoは、その頃勤めていた会社を辞めて、地方にある実家に帰ると話していた。ずっとやりたがっていた編集の仕事をできるようになったはずだった。辞めることになった理由は、はっきり分からなかった。
ただ、デザートを食べていた手を止めて「音がすごく大きく聞こえる」と耳を押さえていたのを覚えている。意外だった。確かにがやがやしてはいたけれど、うるさいほどではなかったからだ。最近、そういうことがあって、家族に心配されていると言っていた。
それが、記憶にある最初の結び目だ。
次に会ったのは、2008年。彼女の故郷でだった。空港で待っていると、Maoの柔らかい声がした。小柄な身体にエネルギーが満ちている。そんな様子は久しぶりだった。
絶品の味噌カツを食べながら聞いた話に、私は興味をそそられた。
Maoは、何ヶ月か充電期間をおいた後に、地元に近い地方都市で広報の仕事を始めていた。以前の経験を活かせるとのことで、会社の規模も大きくなっていた。複数の会社から内定をもらい、しかも第一希望の面接が終わるまで、別の会社にも待ってもらったという。
「そんなこと、できるんだ」と驚く私に、Maoは「応援してくれるコーチさんがいたから」と言った。転職コーチングのことを話す姿は生き生きしていて、もう辛そうではなかった。奥の方にあった芯の強さが出てきて、ふんわりとした雰囲気と調和していた。
コーチングか。その単語を頭に入れた。
2009年。二人とも結婚をして、また東京で会えるようになった。
私は紆余曲折を経て、韓国で知り合った恋人と国際結婚をした。翌年の春には、全ての仕事を整理し、日本を出ることになっていた。
Maoは会社を退職し、旦那さんの職場の近くに引越していた。転職の経緯を聞いていただけに、辞めるのはもったいないように思えた。しかし、一つずつ自分に聞いて決めたことだからと、本人は至極落ち着いていた。
ある日、社会人サークルで、Maoがコーチングの勉強会を開くことになった。
Maoのコーチが実際に使ったという質問リストが準備されていた。
体験ワークが始まり、私はクライアント役になることにした。
「最近、変わったことはありますか」
そのころ悩みの種だった、どうしてもコミュニケーションがうまくいかない人のことが思い浮かんだ。
「そうですね。皆に好かれようとしなくても、いいんじゃないかと思うようになりました」
気楽に答えたはずが、思わぬ言葉が口を突いて出た。
「いいですね。じゃあ、皆に好かれようとすると、どうなるんでしょう」
ちょっと考えてから、答えた。
「すごく、疲れますよね」
体中疲労感に包まれた。どうやら、心の奥から出てきた声のようだった。
「じゃあ、どうしたら疲れないでしょうか」
「全ての人と仲良くしなくてもいいのかな…。私を良く思ってくれる人たちもいるから、 そこを見ていけばいいのかなと、思いますね」
口にしたら、ほっとした。自分の中に答えがあって、引き出された。質問だけで、それができた…。
勉強会は大成功だった。参加者は口々に「Maoさんのファンになりました」と言った。
身近な友だちだったMaoが絶賛されているのを聞いて、誇らしいような、羨ましいような、ちょっと複雑な気分だった。
勉強会の後、質問リストを作ったコーチの名前を尋ねた。そして、「堀口ひとみ」で検索し、ショートヘアで明るく笑っている女の人のホームページを見つけた。無料のコンテンツをダウンロードし、プレコーチングをしてみた。ほどなくブログを毎日読むようになった。
それからずっと、堀口さんの発信する情報は身近にある。
ちょっと気になったのは、誤字脱字や助詞の間違いが目立つこと。「Letterお待ちしております!」と書いてあるし、いいよね、と自分に言い聞かせて、メールを書いたことがある。ブログやメルマガから間違っているところを引いて、文章の完成度を上げる提案をしてみた。
返事はすぐに来た。編集者の方にコーチをしてもらっているという。「Noharaさんをヘルプリストに入れさせていただきます! ありがとうございます」と書いてあった。
ふぅん、なるほどね。
たぶんその時、私は堀口さんを試していた。
2010年。韓国に渡り、新生活を始めた。
同じ職種で、スムーズに仕事を得ることができた。夫と二人の生活は穏やかで、仕事と家庭のバランスも良かった。
結婚前の心配とは裏腹に、彼の家族は私のことを好きになってくれたみたいだった。感情に素直な人たちで、よく怒ったり拗ねたりする。言いたいことを言って喧嘩っぽくなる時があっても、愛情が伝わってくる。不思議だったが、居心地が良かった。私の家族とは、少し違う。
生活が落ち着くと、仕事の発展性のことを考え始めた。私には、やりたい仕事のイメージがあったが、それがまだ実現できていなかった。
就きたいと思っていた仕事を始めて十年になる。言葉を教える仕事は好きだった。国や職場が変わっても、学生からの評価は安定していた。
だが、今は平凡な語学教師で、いくらでも代わりがいる。雇用形態も安定しているとは言いがたい。仕事の幅を広げ、個性を出していきたかった。自分の分野を確立し、専門性のあるプロフェッショナルになりたい。
ステップアップするためには、継続的に成果を発表し、専門分野を確立する必要がある。成果を出すには、教育面と研究面があるが、私の研究は、何年も前から止まったままだった。理由のはっきりしない抵抗感があって、どうしても正面から向き合うことができなかった。
一人では、このトンネルは抜けられない。そう思った時に、コーチングを受けようと決めた。
今後数十年のことを考えるなら、投資する価値があると思った。
夏の一時帰国に合わせて、対面コーチングを申し込んだ。
初めて会ったとき、堀口さんはあまり笑わなかった。ホームページみたいに満面の笑顔だろうと思っていたから、ちょっと拍子抜けした。淡々としていて、無色透明で、囚われていない感じ。メールの返事もシンプルだし、セミナーも好きな服装でしているみたいだった。
そんなに自分を出していって大丈夫かなと、私だったら心配になる。
でも、彼女にはファンがついている。きっと何かがあるんだろう。
もう少し、堀口さんに関わってみよう。
結局、単発と90日コーチングを組み合わせて、一年程セッションを続けた。
最初の頃のセッションでは、その時々の出来事について語りながら、自分の感じ方の軸を探していった。二十代に走り切ったから、仕事の基盤ができた。「なんで、こんなに必死なんだろう」と虚しくなったこともあったけど、その時期があったから今の自分がいる。よくがんばってきたと思えた。
やりたいことの中では、語学学習と異文化交流を同時に叶えるコミュニティ作りが進み、イベントも成功した。語学教師に加え、異文化間コミュニケーションのファシリテーターとしての+αをどうプロデュースしていくか。パーソナルブランディングの相談に乗ってもらい、色々な企みをした。堀口さんは、良い相談相手で、相棒だった。
それでも、物足りなさがあった。「それほど劇的に何かが変わるってわけでもないんですね」と言うと、「コーチングは漢方薬みたいなもんですからねぇ」という答えが返ってきた。漢方薬が日常にある国にいて、その言葉は不思議に記憶に残っている。
ブログにあるような「色々なことが起こりだす」みたいなのを体験してみたいんだけどな。ある晩、思い立って堀口さんにメールを書いた。
「今までのセッションを踏まえて、自由に質問してもらえませんか。なんだか私は、自己完結な気がするんです」
次の日のブログで「そんなこと、突然言われても思いつかないよ…!」と困っている堀口さんを見て、思わず苦笑した。私のこういうところが、人をびっくりさせることがある。またやっちゃったか…。
ところが、この思いつきはヒットにつながった。
セッションは、こんな質問から始まった。
「まず、どうして自己完結なんですかね」
どうして…?
そんなこと、考えたこともない。
どうして…?
「私、待つのが苦手なのかもしれません」
「あぁ、Noharaさんも、せっかチーズなんですねぇ」
思わず「はい?」と聞き返してしまったけど、その表現は気に入った。
言われてみれば、そうだった。反応を待つ。様子を見る。そういうのは、居心地が悪い。だから、相手の考えを予測して、先回りしてしまう。本当に聞きたいことは、答えが分からないから、聞けない。きっとこうだろうと推測して終わらせていた。
「オープンな人に見られるけど、隠れ閉じてる部分があるんですよね。私は二重になっていて、外側の扉はオープン。内側の扉はがっちり閉じてます」
笑い話にしてしまったが、本当はちょっと深刻だった。
内側と外側にギャップがあって、それが大きくなるとストレスになる。誰にでもあることかもしれないけど、私の場合は、自分に価値がないという感覚に結びついていた。どこまでやっても、充分だという感じがしない。褒められても「それは本当の私じゃない」と感じてしまう。
明るくて優しくて前向きで、人の役に立つ私。そうじゃなければ、相手にされないような気がしていた。
原因を探るならば、幼い頃や家族との関係に遡ることができるだろう。
でも私は、前に進みたかった。だから、コーチングを選んだ。
結果から言えば、正解だった。
最後のセッションで、堀口さんに感想を聞かれ「もやもやに気づけるようになりました」と答えた。
それまでは、「私は元気、私は平気」と思い込んでいた。溜まった感情がぐらぐらと煮え出してから、初めて全然大丈夫じゃない自分の気持ちに気づく。大人と言われる年齢になって、飛び出しそうな感情を飲み込むスキルは身についた。しかしそれは、毒みたいなものだった。
コーチングを受けているうちに、そういうやり方が止まった。質問を経由して感情に向き合うこと。自分で気持ちをケアし、外に逃がす方法を覚えて、慎重に行動を選択できるようになった。結果的に、問題解決能力がアップしたと感じている。
最近の私は、せっかチーズも卒業しつつある。
あれ以来、焦っていらいらしていることに気づくと「せっかチーズが出てきたよ」と呟くようになった。すると、気持ちがほぐれて「もう少し待ってみよう」と思えるのだ。
すぐに結果が見たいという焦りが、種まきをして、後で勝手に花が咲けばいいという構えに変わった。
自分に対しても、待ってあげることを覚えた。
最初は研究を主眼にセッションを進めていたが、やがて大学生のころ横においた物書きの夢がよみがえってきた。今は、論理的な表現と感性的な表現の両方に取り組んでいる。
それでも、少しでも粗が見えると作業から遠ざかってしまう。
「自分で想定してしまい、書けなくなっている」
それが、セッションで出てきた問題点だった。
一つの考え方を提示すると「でもこういう立場の人だったら、これを見て気を悪くするかもしれないな」と考え始め、筆が止まる。
そんな悩みを堀口さんに話したら、「えーっ」と驚かれた。
「そんなにいろいろ考えてるんですか? それじゃ、文章が回りくどくなりますよ」
「でも、一度発信したら取り消すことはできないし…」
「どう受け取るかは相手次第じゃないですか」
「それはそうですけど…」
「余白を残して書けばいいんですよ」
「よはく?」
その時はぴんと来なかった。
でも、今は分かるような気がする。
表現する人にできることは、見せるところまでだ。
続きは、相手に預ける。
そのためには、受け手への信頼が必要だということ。
コミュニケーションにもつながっている。
心の扉は半開きで良い。入るか入らないか、ノックしてみようか。一度お邪魔して、また出て行こうか。自分にも相手にも、そんな風に決める自由がある。
研究を、創作を、辞めてもいい。続けてもいい。
選択の自由を自分に許せるようになって、初めて筆を取ることができた。
実はその頃、面接を受けてみないかとオファーをもらった。私にはもったいないようなチャンスだった。結果的に縁はなかったが、自分の位置を見極めるいい機会になった。今の自分では、実力が足りない。でも、あと少しのところまで来ている。何よりも、声をかけてもらえたことがありがたく、見ていてくれる人がいたことが嬉しかった。
小さな変化が重なり、やがて人を眺める角度が変わった。ふと見渡せば、周りには温かい人達の輪があった。環境は変わっていない。視線の向きで、冷たいと思い込んでいた場所に、温もりを感じるようになったのだ。
「Noharaはどんな人かって、こんなに才能に恵まれた人っているのかなって思う」
「どんどん夢を実現していって、すごいNoharaちゃん、どこまで行っちゃうのって思うんだけど、ちょっとボケてるとこが、安心できていいんだよね」
「たまに、くよくよしてるところがいいんだよ、人間らしくて」
耳を通り抜けていった言葉たち。皆が私の何を見ているのか、どこを好いてくれるのかに目を向ければ良かったのに。そうすれば、もっと早く気づいただろう。
世の中は、私が思っていたよりも温かく、人々はもっとやさしい。そしてあなたは、自分で思うよりずっと素晴らしい、と。
そんな変化は、コーチングの効き目だと因果関係がはっきりしているわけではない。
漢方薬で体質が改善されて病気にかかりにくくなるように、物事の捉え方が変わって、いつの間にか楽な気持ちで過ごせるようになった。私の中の、強くて自由で遊び心のある自分が、少しずつ、外に出たくなって、うずうずしている。
もう大丈夫だ。私は、私の芯を発見した。
自分に対する信頼。
それが、私が手に入れたものだ。この鍵を持っていれば、どこにでも行ける。
行き方も、行き先も、行くかどうかさえも、自分が決めれば、それでいいんだ。
* * *
2011年の秋。自分に何が起こったのか振り返っておきたくて、ひとみずむに参加することにした。
初稿を書き上げた後、添削委員の康子さんに、こんな感想をもらった。
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なんだか怒りや悲しみがいっぱいで、淋しくて、辛そうにしていたチャイルドが居て。
繰返し、サイン送ってるのに、なんで気づいてくれないのって、怒りながら泣いてる。
そんなチャイルドが…へへへ、見つけてもらった~って、やっとハートに戻る~って、嬉しそうにして、フワフワして、フフフって笑ってるイメージが伝わってきました。
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……なんだろう。
メッセージを読んで、浮かんでくる光景があった。
十歳の頃まで住んでいた街。四方を山に囲まれ、強い風の吹く街。
もう二十年近く、思い出したこともなかった。
じわっと涙が出てきた。
その感覚が気になって、インナーチャイルドセラピーを受けることにした。
そして、たどりついた。
2011年師走。
スカイプ越しに康子さんとつながり、ゆっくりとセラピーが始まった。
「今、あなたはどこにいますか」
自宅じゃないんでしょうか、と答えそうになったが、ちょっと待ってみると、子ども時代の家があると感じた。
「昔住んでいた家です」
「中に、誰かいますか」
「はい。子どもがいます」
「それはNoharaさんですか」
「はい」
「そのあなたは、何歳ですか」
そんなの分かんないよ、と突っ込む私。しかし「六歳です」と言っていた。万事がそんな調子で、戸惑いつつも、答えが出てくる。
その内に、涙が出てきた。
子どもの頃の出来事が、ある感情に絡まって、次々と現れてきたのだ。どれも五歳から七歳ぐらいのことだった。
喧嘩をする両親。母の味方をする私。子どもは口を出すなと怒る父。黙りこむ私。
家の壁にいたずらをする私。見つかって絶体絶命になり、友達がしたと嘘をついたこと。それがばれて更に怒られ、口を聞いてもらえなかった夜。
少し、強い力で浮かんでくる出来事があった。
ごちそうとケーキが並んでいる。幼稚園のお友達と、お兄ちゃんがいる。七歳の誕生日会だ。
私は、完全にはしゃいでいた。見て見て、と言って、座っていたお兄ちゃんの頭に片手をかけて、もう片方の手はタンスの上に置いて、ぴょんと飛んだ。
お母さんの怒った声が聞こえて、びくっとした。
「お兄ちゃんに謝りなさい」
楽しくて仕方なかったのに、私はまたダメなことをしたようだった。
「ごめんなさい」
喉が詰まって、胸がぎゅっとなった。お母さん、怒ってる。怖い。怒らないで。嫌いにならないで。
その時。
「わたしはダメな子だ」という信念が芽生えた。
そんなつもりがなくても、私は悪いことをする。人を傷つけてしまう。
人が怒ったら、不機嫌な顔をしたら、傷ついたと言ったなら。きっと私が悪いのだ。
そんな回路ができたようだ。
そして、それは長いこと気づかれることなく、放っておかれた。
何度も経験した覚えはあった。誰かの不愉快そうな表情を目にするぐらいなら、自分を抑えた方がよっぽど良かった。それでも対応できない出来事に遭遇すると、呼吸が浅くなり、思考が停止した。
「えらいね」という台詞を何度も聞いた。ひどいことがあっても、私が笑っているから。でも、そうじゃない。感じるスイッチをオフにして、いい人がしそうなことをなぞっただけだ。
「いい人だね」と言われると、あぁ、まだ大丈夫なんだと思う。まだ傷つけていない。まだ、嫌われていない。そのために、がんばること。繰り返すうちに、哀しいとか淋しいってどんな気持ちか、よく分からなくなってしまった。
悩みを相談すると、みんな声を揃えて尋ねてくる。
「あなたは、どうしたいの?」
そして、自分の気持ちを大事にしろと言う。そんなこと言われても困る。自分の気持ちなんて、どうでも良かった。周りが幸せなら、それで良いと思っていた。それでも、胸の奥がちりっと疼く。我慢しないで、好かれる人。そのままで受け入れられている人を見ると、なんとも言えない気分になる。
康子さんの話によると、繰り返される出来事は、インナーチャイルドが引き起こしているのだという。私は、そんなに気づいてほしかったんだろうか。
七歳の時。七夕の短冊にこう書いたのを憶えている。
「もっとやさしくなりたいです」
そして、誰にも見られないように、そっと裏返しにした。
やさしくならなきゃ、すきになってもらえない。
子どもの私は、体育館の隅っこで、誕生日会の出来事を思い返していた。
「Noharaちゃんが、安心して話せる場所に呼んでもらえますか」
スカイプの向こうで、康子さんが言った。インナーチャイルドと、今の私と、康子さんで三者懇談をすると言う。
昔住んでいた家の庭が現れた。
草がぼうぼうと生えていて、石のブロックで囲まれている。その左隅に、ペンキで銀色に塗った鉄棒がある。父が、私たちが思い切り遊べるように作ってくれたものだ。
小さい私は、なんだか落ち着かないようだった。お兄ちゃんを呼んでほしいという。康子さんの指示に従って声をかけると、幼い兄が出てきて、二人は庭で追いかけっこを始めた。
大人の私は、二人が遊ぶのを眺めていた。
「今、話せますか」
康子さんが問いかけた。兄は家に入り、女の子がこちらに近寄ってきた。
「Noharaさんから、Noharaちゃんに、何か伝えたいことはありますか」
言葉が浮かんでくるのを待つ。祈りに似た気持ちで、思いを込めた。
「元気に育つんだよ」
イメージの中で、その子を抱きしめてあげた。あったかい感じがした。
「じゃあ、Noharaちゃんに、何か言いたいことがあるか聞いてください」
その子は私の方を見上げて、こう言った。
「だいじょうぶだよ」
そして、安心してねというように、ふわっと笑った。
「やさしい子だね」
そう言ってあげたくなった。女の子は、はにかんでいた。伝わったようだ。私の耳に口を寄せて、そっと囁いた。
それから、セラピーが終わる手順を踏んで、挨拶をし、スカイプをオフにした。頭がぼうっとして、だるさが残り、眠たかった。
その体験を、どう解釈したら良いのか分からない。でも、きっと解釈する必要はないんだと思う。
セラピーから数日間、鉄棒のある庭の風景が、ずっと私の中にあった。
父が私たちのために作った、小さな空き地みたいな庭。
あの庭があるから、私はこれからずっと、生きていける。
そう感じて、目頭が熱くなった。
あの家を離れた後、いろんなことがあった。
家族には何も言えなかった。問題が大きくなってから親に伝わり、怒られることはあった。
「親はなんにも分かってない」
いろんなことがいやになった。毎日元気で楽しいふりをすることをがんばった。困っていると、素直に言うことは思いつかなかった。そもそも、自分が傷ついていることに気づいていなかった。
いつまで経っても、どこまでやっても、何かが足りなかった。
「本当なら、もっとできたね」
「上には上がいるから、これぐらいで調子に乗ってはダメ」
その感じは、親の声から、いつの間にか自分の声にすり替わっていた。
こんなにがんばってるのに、これ以上どうしたらいいの?
もう息が切れて倒れそうなのに、どうして気づいてくれないの?
心の声が最も強まっていたのは、コーチング勉強会が開かれた頃だった。活動的だった自分が、疲弊感に包まれるようになり、気力がなくなり、日常的なことをこなすのが精一杯になっていた。実際に倒れたこともあった。こんなのは私じゃない。焦っていた。
子どものころは、そうではなかった。
お父さんが家に帰ってくると、真っ先に駆け寄って肩車をせがんだ。
お母さんの自転車の後ろには私、お父さんの後ろにはお兄ちゃん。風を切って家族四人、ステーキを食べに行く興奮!
生まれ育った街が好きだった。わたしたちの小さなおうちが大好きだった。
わたしは元気いっぱいで、心に愛を持っていて、無敵だった。
あそこを離れたくなかったんだ。
康子さんのメールで、初めて気づいた。
「わたしはここで幸せなのに、どうして遠くに行かなきゃいけないの?」
その気持ちは、意識に浮かび上がってはこなかった。
お父さんとお母さんが、嬉しそうに笑っていたから。
母に怒られた時。
「悪い気持ちでそうしたんじゃないってこと、分かってるよ。これから気をつけようね」
そう言って、トントンと背中を叩いてほしかった。
学校を変わりたいと言った時。
「なにかあったの?」って聞いてほしかった。
その気持ち。「分かってほしいよー」という気持ちを全身で感じた。すると、喉から胸の辺りにあった重たいものが、しゅわっと溶けていった。
「そうか、Noharaちゃんは見ててほしかったんですね。Noharaさんが見ていてあげたことが、良かったんでしょうね」
康子さんの声が、やさしく響いた。
小さな私の願いを、今の私が叶えてあげることができたんだ。
そうしたら、味方になってくれた。
「きいてみたらいいよね?」
彼女がくれたのは、私のための魔法の言葉だ。
おもってるよりも、つよいんだよ。
だから、だいじょうぶだよ。
ちびNoharaは、たしかに笑っていた。
* * *
2012年1月。
私とMaoは、新宿のカフェにいた。Maoの膝には、もうすぐ一歳になるMaaちゃんがいる。 Maoには、書き途中のひとみずむに目を通してもらっていた。
「私もね、コーチングで自信がついたのが一番大きかったの。だから、Noharaのひとみずむ読んで、同じゴールにたどりついたんだと思った」
そう言う姿は、うれしそうだった。ふと、初回のコーチングのことを思い出した。
「あの時、堀口さんは『それ、応用問題ですよ』って言ったんだよね」
「応用問題?」
「うん、今まで、たくさんのことを乗り越えてきましたね。でも、今の人間関係の悩みは、一番レベルが高そう。そこをクリアできれば、怖いものなしですよって」
「へぇ」
「今回の一時帰国で、その相手の人に初めて、自分の気持ちも言えたんだ。そしたら、意外にも分かってくれたの。それで、あぁ、私、過剰に期待してたんだなぁって気づいた」
「期待?」
「うん。理想的な人間関係を作りたいっていう期待。私の描いてるイメージがあって、そこからかけ離れてるのが嫌だったんだなぁって。相手はそういうの求めてないかもとか、考えてなかった」
最初のコーチングで出た結論は「期待を手放す」ことだった。
その時は、分かったと思った。でも、今に到るまで進まなかった表現に関する部分。
そこが、ひとみずむを書きながら、初めて進み始めた。
Maoが、コミュニケーション上手になりたいと言うのを聞いて、思いついたことがあった。
「私の知ってるコミュニケーションの達人は、相手を主役にできる人だったよ」
「え、どういうこと?」
「相手が、私が私がっていうタイプでも、うまく立ててあげるの。それでいて自分をないがしろにしてるわけでもないというか」
「それって、自信がないとできないよね」
「そうそう。そこを譲っても、自分は揺らがないって分かってるんだろうね。私だったら『私の気持ちは?』ってなっちゃうところ」
「すごいね。私たちも、そこまでいけるかな?」
私の気持ちは…?
それが置いてきぼりだったから、いつも気になっていた。
カウンセリングを経由して、私は殺してきた怒りを解放した。やっと親と向き合うことができたけれど、あれは対決に近かった。ぎこちなさが残り、家族といても寛げない自分が寂しかった。
彼らなりに懸命に、私を育てようとしていたのだ。鉄棒のある庭の記憶は、そのことを教えてくれた。身体の芯まで、愛情が染み渡っていく。すると、どこからともなくやさしい気持ちが湧いてきた。
今回の帰省で、家族と一緒に過ごす時間は穏やかだった。あんなに結婚に反対していたのが嘘のように、両親は夫を大事にしてくれた。心配だったり寂しかったり、色んな気持ちがあったんだろう。私も未熟だった。親も私も、それぞれの歩幅で成長している。
日本で生まれ育ち、二十歳を過ぎてから三つの言語でコミュニケーションできるようになった。国籍、年齢、性別を超えて、気の合う友だちを見つけるのが得意だ。この国で居心地よく暮らすことができていて、文化が違う人とうまくつき合うコツを知っている。
そんな私が、一番難しかったのは、親との気持ちの疎通だった…。
時間はあっという間に過ぎた。バイバイをしたら、また会えるのは半年後だ。
「短い時間だったけど、深い話ができたよ。ありがとう」
Maoは笑顔で言った。Maaちゃんの相手をしながら、私の目も見て話すスキルを身につけている。二人は一体という感じがした。別々の人間なんだけど、うまく重なって助けあってる。
きれいだなと思った。今まで可愛いと思ったことはあっても、美しいと感じたのは初めてだ。お互いにないものを持っている。それが当たり前で、しかも貴いと感じられるようになってきたから、私は自分に満足できた。
コーチングってなんだかよく分からない。人によって得られるものが違ったり、違ってるようで同じだったり。でも、どこかで糸はつながっている。
日本から帰ってきた私の隣には、今日も悩みを抱えている夫がいる。
どうしたら、彼の力になれるだろうか。私は少し考える。
今年やりたいことを二人で紙に書き出して、彼に向かって質問をした。
「この中で、未来のことを心配しないで、ただ純粋に、してみたいと思うのはなに?」
彼はうーんと考えて、答えた。彼は、彼の答えに従って動いていくだろう。
私はそれを見守っていく。
寄り添う人になりたい。
今までの人生で初めて、心からそう思った。